写真家・浅井愼平さんインタビュー
「人生はハローとグッドバイでできている」
——時代の真ん中を歩いてきた60年【前編】
1966年、来日したビートルズに密着し、写真集『ビートルズ東京 100時間のロマン』で注目を集めた写真家・浅井愼平さん。
その後、広告写真や雑誌を中心に数々の作品を手がけ、日本を代表する写真家として活躍してきました。一方で、映画監督、作家、陶芸家、俳人など、多彩な表現活動でも知られています。
2026年7月には、日本橋三越本店で「星空のハローグッドバイ 浅井愼平写真展」を開催。写真作品に加え、書やガラス工芸作品も展示されます。
ビートルズ来日から60年という節目の年に、ビートルズとの出会い、写真という表現が大きく変わった時代、そしてご自身の歩みについて伺いました。
ビートルズ来日から60年、振り返って思うこと
2026年はビートルズ来日から60周年という節目の年です。
当時を振り返って、今どのようなお気持ちですか。
そうなんですか。60周年なんて考えたこともなかったですね。長かったような気もするし、あっという間だったような気もします。その時の気分によって違いますけど、どっちもありますね。
ただ、振り返ってみると時間というのは面白いものだなと思います。その時はただ目の前の仕事をやっていただけなんですよね。
当時から60年と言われても、自分ではそんなふうに区切って考えたことはなくて、気が付いたらここまで来ていたという感じなんです。
「エルヴィスは分かるけど、ビートルズは分からない」時代だった
1966年、撮影を許可された唯一の写真家としてビートルズを撮影されています。
当時のビートルズはどのような存在だったのでしょうか。
今だとビートルズというと、もうクラシックみたいな存在でしょう。だから若い人たちにはなかなか想像しづらいと思うんですけど、当時はそうじゃなかったんですよ。「なんだこれは…」と思った人のほうが多かったくらいの時代だったんです。
エルヴィス・プレスリーは分かるけれど、ビートルズは分からないという人がたくさんいた。
今聴けば別に難しくもなんともないんだけど、1966年頃だと音楽だと思わない人もいたんです。それまでのポップスとはちょっと違ってね。だからビートルズが新しかったということを今の人に説明するのは難しいんですよね。本人たちだって、どうしてこんなことになっているんだろうと思っていたんじゃないかな。
僕もまだ若かったし、そんな時代の真ん中にいたんですよ。
時間というのは面白いもので、新しいと思われるものが現れる時というのは、案外そういうものなんだと思います。後から振り返ると歴史になるんだけど、その時はみんな目の前のことをやっているだけなんですよね。
歴史は一人の才能だけでは生まれない
今振り返ってみて、ビートルズが時代を変えた理由はどこにあったと思われますか。
今になって思うのは、ビートルズというのは4人だけでできたわけじゃないんですよね。 僕はビートルズのマネージャーだったブライアン・エプスタインという人の存在が大きかったと思っています。 彼がいなければビートルズは違うグループになっていたかもしれません。
当時の若者らしく革ジャンを着て、そのまま出てきたかもしれない。でも彼はスーツを作ったり、髪型を整えたりした。むしろ逆の方向へ持っていったんですよね。
彼は非常に教養のある人でした。音楽だけじゃなくて、いろんな表現に対する理解があった。ハムレットをやりたいと言うような人でしたからね。
ライアン・エプスタインの写真は、今になって思うとよく撮らせてくれたなと思いますね。
最初は「なんで撮るの?」と言っていたんです。でも僕が「なんで? 僕は写真家だよ」と言ったら、彼は笑ってね。それからは撮らせてくれるようになったんです。
僕が彼に何かを感じたように、彼もまた僕に何かを感じてくれていたのかもしれません。最初はダメだと言っていたのに、だんだんと好意的になってくれて、自然にカメラを向けられるようになりました。
当時は僕も若かったし、そんなことまで考えていませんでしたけどね。でも結果的には、その写真が残った。
今振り返ると、ビートルズだけじゃなくて、その周りにいた人たちも含めて時代をつくっていたんだなと思います。
だから歴史って面白いんですよ。一人の才能だけじゃない。
出会いがあって、人がいて、それで歴史ができていくんですよね。
本当は映画監督になりたかった
もともとは映画の世界を目指していたそうですね。
そうなんです。僕は映画少年だったんで、本当は映画監督になろうと思っていました。そうなると、当時は映画会社に入って助監督になるのが一般的だったんです。僕も松竹へ行きたいと思っていた。
ところがちょうどその頃、助監督の採用がなくなってしまったんですよ。それで「ああ、映画はもう難しいな」と思った。だから写真の世界へ入ったんです。
でも今になって思うのは、映画の世界に行かなくて良かったなということなんですよね。映画へ行っていたら、そこそこやったかもしれない。だけど写真という表現には、まだ可能性が残されていた。
僕が初めてやったようなことが、まだたくさんあった時代だったんです。時代が少し違っていたら、僕は映画監督になっていたかもしれない。
でも結果的には写真を選んで良かったと思いますね。
写真という表現が大きく変わる時代だった
浅井さんが写真家になった頃は、写真そのものも変化していた時代だったそうですね。
全然違いましたね。今みたいにシャッターを押せば写る時代じゃなかった。まず写るか写らないかという問題があったんですよ。
フィルムですし、その場で確認もできない。光がどうなっているか。露出はどうか。全部考えながら撮らなきゃいけなかった。だから良い写真か悪い写真かの前に、まず写るかどうかだったんです。今の人からすると不思議かもしれないけど、本当にそうだったんですよ。
僕らの前の写真家なんて、もっと大変だったんですよね。布をかぶって大きなカメラで撮っていた時代もあったわけですから。
でも僕らの時代は運が良かった。カメラもどんどん良くなったし、フィルムも良くなった。印刷も変わった。雑誌も元気だったし、広告もどんどん増えていた。メディアもあったんですよね。だから機材の発展と僕の青春がオーバーラップしていた。
そういう意味では本当に運が良かったと思います。写真学校にも行っていませんからね。技術的なことは周りの人に教えてもらいながら覚えたんですよ。教育を受けていない良さもあったし、受けていない弱さもあったと思います。
だけど結果的には、それが僕らしい写真につながったのかもしれませんね。
「僕は裸を撮らなかった」
写真家として、ご自身らしさを感じる部分はありますか。
時代でしたからね。あの頃はみんな裸を撮っていました。本当にそうなんですよ。グアムへ行くと、日本の写真家が50人、60人いる。ホテルも写真家と制作チームばかり。東京で会えない写真家同士が、グアムで会えるくらいでした。週刊誌もそうだし、とにかく裸が売れていた時代だったんです。
友達の写真家にもよく言われました。
「浅井さんも撮ればいいじゃないか」「金になるぞ」って。
でも僕は撮らなかった。別に他で稼ぐからいいよって。
今思うと、あの時代に女の人の裸を撮らなくて、それでも写真家として残れたのは珍しかったかもしれませんね。だけど僕は、自分が撮らなければ誰も見なかったかもしれない風景のほうが面白かった。振り返った時に見える景色とか、何でもない日常とか。
それまでの写真は意味のあるものしか撮らなかったんですよ。でも僕は、そうじゃないものも面白いんじゃないかと思った。どうってことない景色だけど、これも面白くないですか、という感じで撮っていたんです。
だからそういう写真を撮れたのも、時代のおかげだったと思いますね。
(後編へ続く)
展示会情報
| タイトル | 浅井愼平60th「星空のハローグッドバイ 浅井愼平写真展」 |
|---|---|
| 会期 | 2026年7月8日(水)~7月20日(月・祝) 最終日午後6時終了 |
| 会場 | 日本橋三越本店 本館7階 催物会場 |
| 入場料 | 無料 |
| 主催 | 浅井愼平60th写真展 実行委員会 |
| 公式サイト | https://hellogoodbye-shimpeiasai.jp/ |